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火曜日, 5月 12, 2015

セロー散歩: 東大キャンバスうろちょろ・・・5 銅像さん達 B ^^! 古市公威


前回


東大の本郷キャンパス正門

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入って左に行くと、工学部11号館の横にあります

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古市 公威(ふるいち こうい、
 昭和9年(1934年1月28日)は、日本学者工学博士
帝国大学工科大学初代学長。東京仏学校初代校長。
土木学会初代会長。日本工学会理事長(会長)。
東京帝国大学名誉教授。男爵

帝国大学工科大学長土木学会長工学会(日本工学会)理事長
として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を創った

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古市公威は、姫路藩古市孝の長男として1854年

(嘉永7年)に江戸の藩屋敷で生まれた

1869年(明治2年)に旧幕府の開成所を復興し開校した開成学校

入学し、1870年(明治3年)には姫路藩の貢進生として

大学南校(旧開成学校)へ進学した。1873年(明治6年)には

開成学校に設置された諸芸学科へ進学、1875年(明治8年)

諸芸学修行のため

文部省最初の留学生として欧米諸国へ派遣されることとなった。

1879年(明治12年)8月、フランスの中央工業大学(エコール・

サントラ)を卒業して工学士の学位を受領、同年にはパリ大学

理学部に入学、翌年には同校を卒業して理学士の学位を受領。

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帰国した古市は1880(明治13年)12月、内務省土木局雇い

となり、内務技師として現場で勤務するかたわら、翌年には

東京大学講師を兼任することとなり、以後、官僚技術者と大学

教官の二足の草鞋をはいた。


近くには、こんな木が、植えられている 

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1886(明治19年)5月1日には32歳にして帝国大学工科大学

(東京大学工学部の前身)初代学長に就任。また、

初代文部次官新次らと同年5月に仏学会(日仏協会の前身)、

同年11月に東京仏学校(後に東京法学校と合併して法政大学

前身となる)を設立し、東京仏学校の初代校長にも就任した。

1894年(明治27年)には内務省の初代土木技監に就任して、

土木行政の改善を図り、土木法規を制定するなど、技術上・

行政上に非凡の才能を振るい、近代土木界の最高権威 

東京都文京区本郷2丁目に現存する1887(明治20年)頃建て

たと思われる古市の旧居は、住宅および蔵が2003年

(平成15年)3月、国の登録有形文化財となった。

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古市は内務省土木局のトップとして全国の河川治水、港湾の修築

のみならず、日本近代土木行政の骨格を作るとともに、

工科大学長土木学会長・工学会の会長として、日本近代工学

ならびに土木工学の制度を作った。

彼の代表的な功績として、横浜港の建設がある。

1905年(明治38年)、横浜港に日本最初の大般の繋船壁が完成

たが、その設計を担当したのは古市だった。

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19208月29日に設立された日本最初の地下鉄である 
東京地下鉄道株式会社の初代社長にも迎えられている。
短期間で野村龍太郎に譲っているが、1925年の地下鉄建設起工式
では1番最初に杭を打っている。
帝国大学初代総長渡邉洪基(渡辺洪基) の意向を受け、工手学校
 (現工学院大学) の創立(明治20年)を推進した。渡邉洪基に継ぎ
管理長 (明治34年) に就任、その後も含めて約30余年間に
わたって学院の発展に尽力した。

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古市は公平無私であり、よく学生を導いたといわれる。
また、日本工学会の初代会長として、世界の中で、日本の工学
技術の声価を高めることに寄与した。作家三島由紀夫の本名、
“公威(きみたけ)”は、内務官僚であった彼の祖父平岡定太郎
恩顧を受けた古市の名をとって命名したといわれている。
司馬遼太郎は自著『国家・宗教・日本人』において、フランス
留学中、あまりの猛勉強ぶりに体を壊しはしないかと心配した
下宿先の女主人が休むように勧めると、古市は
自分が一日休むと、日本が一日遅れます」と答えたという
エピソードを井上ひさしとの対談の中で語っている

古市の書き残した五年間の多数の講義ノートは、
克明を極め正確な上に緻密で、古市文庫として
東大工学部土木工学科に現存している・・・そうな

なかなか…面白いもんですね 

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