前回
あれ ・・・
我が家の庭に
牡丹が、大きな花を咲かせてくれました
なかでも この子は 綺麗です
どこか似ているなぁ
ピンクの花びら
我が家の庭にまだ頑張って咲いてくれている
八重桜
春は、ピンクが似合うなぁ
此れからは、情熱の赤
灼熱の太陽のイメージ
シャクナゲの芽も 今か今かとばかりに膨らんできてますね
ツツジも負けじと ぽつぽつと
情熱の赤 まだ小粒でも
真っ赤なバラには、かなわないかな
いよいよ 騒がしくなってきました
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水曜日, 4月 22, 2015
金曜日, 4月 17, 2015
水曜日, 4月 15, 2015
そぞろ散歩 竹橋 界隈 橋三昧 ^^! その2 キジ橋と黒門
前回
『雉橋 でけんもほろほろに叱られる』
内堀通りから水道橋西通りに向う、通称 「雉子橋通り」
『雉橋 でけんもほろほろに叱られる』は、
この橋付近で外濠 から平河濠に続いていて、江戸城本丸にも
近かったため警備も厳しかったという。
(警備の厳しさと雉のけんけん鳴く声をかけている)。
日本橋川に架かり、一ツ橋の上流約300mの所にあります。
江戸時代初期には 「雉子橋 御門」 が築かれていることから、
御門橋としての 『雉子橋』 はその頃からあったことに なる。
雉子橋を渡ると広小路になっていて前面が清水濠、左に雉橋門の
渡櫓があって枡形の西側は清水濠に近接していた。
現在の雉子橋を渡ると左手に毎日新聞社のビルがあり、
その向いに内濠の竹橋門が見える。旧平川の流路をたどった
外濠の城門はここで終わり、濠はこの先の堀留橋まで通じてい
た。その先は埋め立てられていたが、明治になって掘り返され
小石川門で神田川と合流し、日本橋川は運河として利用されて
います。
雉子橋見附門
雉子橋門は家康が朝鮮の来聘使を饗応するために雉子を囲った
鳥小屋の所在から門名に名付けたそうな。
この橋も首都高に上空 を塞がれて暗い橋と成ってしまっています。
全く下の様子は,分からないが、
雉子橋見附門・雉子橋門は陸奥国または出羽国の大名によって
寛永6年に築かれた。 家康が朝鮮の来聘使を饗応するために
雉子を囲った鳥小屋の所在から門名に名付けたらしい。
大隈重信は、1876(明治元年)年10月から1884(明治17年)年
3月まで、この雉子橋 邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)
に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田 大学の前身、
東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。
周辺には大学が、多いが、チョットした休憩所に 
《黒門》 ☜ 前回は《赤門》
なるほど・・黒塗りの冠木門が校門だったので、やがて
黒門の専修・赤門の東大・・・を意味したそうな 
本当に今まで気にもしなかった橋でさえも・・面白いなぁ、、
火曜日, 4月 14, 2015
セロー散歩: 東大キャンバスうろちょろ・・・3 赤門ラーメンB
前回
安田講堂の地下にはまさに秘密基地「中央食堂」
麺大盛り1.5玉 ¥460円也
地下に驚ろく程の広い空間が広がって様々な形態のテーブルが
ある 世界中の人種の坩堝ならぬ・・食堂だ
カウンター越しに見ていると
茹であげられた麺の上にもやしが乗るりその上から、
挽肉、きくらげ、玉葱、など
の入ったトロミのある餡がたっぷりとかけられる。
またの名を「赤富士」と云うらしく
本来は、
「おろしにんにくとコリアン唐辛子で
山を作って頂くのが作法」
らしいのだが、
辛いのが苦手の小生は、おろしにんにく少々とラー油
小生は、可愛らしいフランス人らしい女の子の前に席を取る
その子は、あじフライ定食
隣には、大柄なドイツの女子学生さん達が、楽しそうに
蕎麦ランチだ・・彼女達には、足りるのだろうか
、、余計な心配か
見た目は,汁無しの油そば風だが、
オレンジ色の艶やかなな餡かけに黒色のキクラゲが、妙に
沢山入っている
写真を撮っていると周りの彼女らから・・変な薄笑いが
見た目にも量は、たっぷり 甘酸っぱい イイ香り
さて・・お楽しみの、、混ぜ混ぜ
完成だ・・
薄紅色の色彩が、如何にも「辛いぞ」と言っているようだ
おぉ・・やや辛めのトロトロとした口当たりとキクラゲや
もやしのシャキシャキ感が・・・いい感じ
初めてのこの味は、結構・・・行けるね
まぁ・・この赤門とは、直接の因果関係はないようだけど
真正面には、安田講堂
昔の東大安田講堂事件は今でも蘇える
安田講堂下の秘密基地は、面白いし美味しいね
さて、、少しぶらつこう、、
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